都庁ビルだ。大江戸線「都庁前」を下車して地上へ。新宿中央公園から望む。
あの都知事はどこらあたりにいるのかな。
たまには本格的なカフェでおいしい珈琲を味わいたい。オリジナルブレンドがだいたい400円くらい。
先週は「喋ってはいけない本を読める」カフェに行った。翌日、緊張したのか腹部が筋肉痛になった。読書もただ座って静かに読むだけではなく。疲労する。驚きだ。
しかしこのカフェは違う。大いに仲間と語り合うことがお店の存在目的でもあるらしい。カフェに集う愉快な仲間達。
そもそも珈琲は食後の楽しみであり、会話特に知的遊戯を旨とする言語ゲームを引立てる。カフェインによって喚起された知的興奮への誘いこそが、実は読書体験の更なる発展になるわけだね。
ところがやっぱり仲間同士の盛り上がりや絆も知的営為には大いなる妨げにもなる。
やれ集中出来ない。やれ人間関係が憂鬱だ。珈琲くらい静かにのんびり楽しみたい。などなど。
まぁお店には特色がある。自由に選んで楽しめばいいよね。
私は美味しい珈琲をゆっくり楽しみたい。読書もいいし、お仲間との会話や交流は別にどうでもいい。
都会に生活していると、ふと自分の原風景を思い出す。幼少より遊んだかの山かの地。
作家宮本輝は今や文壇の重鎮だけど、芥川賞選考委員の筆頭的存在だけど。この作家の小説作法に異を唱える作家もいるけど、私は好きだ。村上春樹と同世代の物語作家として古かろうが説教臭かろうが好きだ。
その宮本輝の『田園発港行き自転車』は確かに北日本新聞社の新社長から懇請があって新聞連載したわけだけど、地方新聞のエリア的な文学要請も重なって、郷愁のリテラルが如何なく描かれる。しかも京都の舞妓の悲話も織り交ぜながら、輝氏お得意の出生の秘密の謎解きも絡めながら。大人の物語。存在感のあるカリスマ的人物が登場する。
やはりノスタルジーは人間にとって心の憩いなのだね。
神楽坂のお祭り。三味線を弾く女子。
汗ばむ陽気だ。そろそろ彼岸だけど。
バカラのグラスで乾杯。祝杯のスパークリング。バースデイの祝い酒。
なぜ、人は泡を飲むのか。炭酸嗜好が強まる。酸性だから歯が痛むが。シュワシュワ。
有名人の死が報じられた。気づけば団塊の世代って既に七十を越す。執筆活動に専念するため文学賞の最終候補を辞退した村上春樹だってもう六十九だ。あとどれだけの長編小説を書き上げることができるか。映画でお馴染みの巨匠北野武やその他いろいろいまだにテレビで老害を剥き出す「老いたればこそ」の石原慎太郎のような太陽どころか老人の季節を謳歌しようという。でも大衆の時代は去り衆愚の愚劣番組ばかり横行するテレビの役割も衰退斜陽の一途だ。傾城の黄昏。
どこかの旧財閥系金融機関が一般大衆の「退職金」と「相続金」があらたなビジネスチャンスだから、その準備期間である四十代から五十代の現役世代に早めの手堅い絆を構築すべく、ロングスパンの戦略が問われている。サラ金のCMから「資産運用」のCMが席巻する。手堅い自己免責の条項も極小の文言が言い訳がましく流れるけれど。
和牛ステーキだ。イタリアーノはやはり和牛がよろしい。メインである。
最近は生鮮食品売り場では外国産のボリュームある肉塊が多数陳列される。どれもこれも低価格だ。関税障壁を取っ払った貿易力学の為せる価格調整なのだが。
全ては消費税10%になって元の木阿弥だ。新規権益発生の軽減税率の認定絡み。膨大な手間その雑多な処理の多岐なる煩瑣に弱音をあげてしまう。
またぞろ増税の言い訳が「福祉充実」何回も何回もそのウソに騙される。でも既定だからね。
ペペロンチーノを喰らう。
我がノベル『傲慢パスタ』も書き上がったけど。https://novel18.syosetu.com/n4315eu/
ノーベル文学賞の発表が選考組織のスキャンダルで見送られたことを受けて、スウェーデンの文化人などがことし1年限定で創設した新たな文学賞で最終選考の4人に残っていた村上春樹さんが、執筆活動に専念したいとして辞退を申し出ていたことがわかりました。
村上さんは、最終候補に選ばれたことに感謝の思いを示しながらも、執筆活動に専念したいとして辞退する意向
受賞したわけでもなく。最終候補になったから辞退というのもあれだけど。
やっぱり村上春樹はノーベル文学賞が欲しくて堪らんのだね。仮のかりそめの臨時文学賞など欲しく無いんだね。だって芥川賞二回落とされて、日本を見切ったわけで。
『1Q84』でも日本の文学賞を嘲笑ったし、NHKの受信料や新興宗教そしてカルトコミューンを批判的に表現した。
でも折角「1984」にあやかったのなら、オーエルが洞察した二重思考の問題も書いて欲しかった。その後の『騎士団長殺し』で二重メタファーの危険を語ったわけだけど。
確かに小説を書き上げるにはあらゆる制限を課さなければならない。まさに寝ても覚めても。どころか夢の中でも書き続けるくらいでないといけない。それを執筆活動に専念したいという創造的主体の真っ当な事由なんだよ。
代筆やブックライターの如き売文業者を使わずせっせと自作を書き上げるにはいちいちの組織の介在など不可能だ。
物理的にも精神的にも物質的にも自由であること。文豪内田百閒が実践した自由人の極意は『阿房列車』で明らかだけど、自己の堕落からも自由でなければ他者介在から知的に距離をおくことなど不可能だ。
文学ほど賞が多い芸術分野も無い。それほど利用に適しているんだね。賞ばかりもらってもあれだけど、みな文学者は受賞したい。
でも春樹は辞退した。その理由が「執筆活動に専念したい」から。「嫌だから嫌だ」よりかなり格好いい。
渋谷のガッキーが変わった。これから冬になってゆくのに。寒々とした疑り深い眼差しのガッキーだなんて。沖縄出身だったけど。安室は引退しちゃったけど。
確かにあの暑苦しいガッキーから季節の周遅れで変わったのかもしれない。真夏の夜にこのガッキーを仰ぎ見ながら妙な胸騒ぎを覚えたけどさ。
プレシャス?安定は希望?