台風はどこいったのがSNSでも話題だ。今は紀伊半島付近。雨の被害いろいろ。
さて今日は八月三十一日。あぁ光陰矢の如し。後悔先立たず。八月も今日でおしまい。夏休みも明日でおしまい。村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」もそろそろ読み終える。
「百年の孤独」はのんびり読んでいく。名作の読書体験は人それぞれ。例えば通勤電車に乗っていて「孤独」を読み始めたが会社の最寄駅を乗り越しても読み終わらず一日で読み終えず読み終わるまで会社を休んだとっておきのエピソードをもつ作家もいる。二足草鞋だった会社を五十歳で辞めて大学教授として学生を教えるその作家は芥川賞を受賞したとき社長が自分の席までやって来た。
「君は我が社の誇りだ」
でも定年まで働かなかった。創作活動に配慮して閑職へシフトしてもらった。それなのに愛社精神はどこへ行った?褒めてくれて我が社の誇りとまで言われながらどうして「孤独」を会社勤務よりも優先したのに会社よりも自分の都合を優先したのか。そんなことして大学生に教育者として対峙できるのか。むしろ教育者としては失格なのではないか!そんなに大学教授は偉いのか。もっと大学教員は謙虚になればいい。
名作を読むことが名作を高らしめることになっていない。読者の自分勝手な振る舞いによって名作を落としめている。そもそも名作とは何か。「百年」の凄さはなんだろう。名作たらしめる文学的意義はなんだろうか。マジックリアリズムと言うけれど。ガルシアの語りが素晴らしいというけれど。大江健三郎やらいろんな小説家を刺激したらしいけど。ガルシアと日本の作家と同じに論じられるのか?文化的背景、政治的経済的状況もまるで違う文学の基盤それ自体の社会学的状況性がまるで違うのに。命懸けの背景があるのとないのとでは。小説の文化装置の前提が全く違うのに。文学を同一線上に論じられるのか?