最近、ガルシアマルケス『百年の孤独』の文庫本が異例のベストセラーになった波及で名作だけど未読の小説が取り沙汰されている。ドフトエフスキー、トーマスマン、トマスピンチョン、ロベルトボラーニョなどなど。夏目漱石も川端康成も三島由紀夫も大江健三郎も大西巨人も。
「カラマーゾフの兄弟」なんかは文学者の好きな踏み絵だろう。かの村上春樹は世界には二種類の人間がいてカラマーゾフの兄弟を読んだ人間と読んでいない人間だと規定する。四回読了した春樹は単なる自慢話ではない何かを伝えたかったのか語りたかったのか。元共同通信記者の辺見庸もカラマーゾフの兄弟を再読してハマったことを「パンセ」に記した。翻訳者別に読み比べる楽しみまで覚えてしまう。
読書という知的営為は読者の人生まで規定するほどの影響力がある。当然ながら読者の主体性に委ねられる一方で知的規範が威圧する。そのムーブメントに便乗する輩も誠に多い。だからこれを読まずして語ることなかれ。百聞は一読にならず?まずは読んでみましょう!読み終えてみましょう‼️
最近、読書ができないのは仕事のせいとか他人のせいとかいう誤った知見が流行っている。それは睡眠と発明の関係に似る。目の前にUFOが出現してドアが開いて宇宙人が出てきた。知的営為のコアはその未知との遭遇の瞬間にある。どんなに疲労困憊して睡眠不足で眠くて仕方がなくてもその疲労睡魔を吹き飛ぶ圧倒性が知的快楽の淵源となる。読書は習慣の一つだ。日記を中学三年からずっと書き続ける人間もいれば一行も書かない人間もいる。なぜ書き続けることができるのかそれは習慣になって人生に寄り添うからだ。
小説は長編小説が面白い。
マルセルプルースト「失われた時を求めて」読み始めた。新たな天才翻訳者の新訳だ。アップルブックスでDLした。ちまちま読み進める。
もちろん「百年の孤独」もちまちま。百聞は一読に如かず❣️